『それはオトラルで始まり、それはオトラルで終わった。』
   ~ ユーラシア大陸征服に挑んだ二人の皇帝と
    シルクロードのオアシス都市オトラルのお話し

『それはオトラルで始まり、それはオトラルで終わった。』   ~ ユーラシア大陸征服に挑んだ二人の皇帝と    シルクロードのオアシス都市オトラルのお話し
 ↑ テュルケスタンに残る世界遺産ヤサウィー廟

①草原の覇者

 一般に世界史史上の四大遠征と言われるものがあります(やや西洋人の色眼鏡が掛かってはいますが)。アレキサンダー大王の『東方大遠征』、神聖ローマ皇帝フリ-ドリッヒ・バルバロッサ(赤髭王)やイングランド王リチャード獅子心王に代表される『第3回十字軍遠征』、モンゴル帝国チンギス・ハンの『西方大遠征』、そしてフランス皇帝ナポレオンの『モスクワ遠征』です。中でも最も長期間で長距離にわたる遠征が、チンギスハンによる西征です。では、彼のその大遠征はどのようにして始まったのでしょうか。

オアシス都市・オトラル

 シルダリヤ河中流北岸(現カザフスタン南部)に位置するオトラルには、1世紀から2世紀頃に初期集落が造られ始め、遅くとも8世紀初頭には、城壁に囲まれた広大な街区と、周辺の灌漑農地からなる典型的な中央アジアのオアシス都市が、ソグド人やトルコ系住民を中心に形成されました。古くペルシャではパーラーブ、またはヤルサルテスのファーラーブと呼ばれており、ソグド人はタールバンドと呼んでいましたが、唐での呼称はわかっていません。ヤルサルテスとはシルダリヤ河のことです。オトラルは12世紀に西遼(カラキタイ)の支配下に組み入れられます。

ホラズムシャー朝と西遼

 ホラズムシャー朝(ホラズム国)は、中央アジア・アラル海の南方・ホラズム地方の首都[旧]ウルゲンチ(=クフナ・ウルゲンチ、現トルクメニスタン)を中心に栄えたトルコ系イスラム教国です。ウルゲンチ(現クフナ・ウルゲンチ)は当時、メルヴに次ぐ中央アジア第2の都市でした。第7代王スルタン・ムハンマドの世に最盛期を迎え、南方では、西アジアの大国アッバース朝の都バグダッドにも攻め込み、アフガニスタンからイラン、ペルシャ湾からカスピ海に及ぶ広大な領土を獲得しました。東方では、1210年、シルダリヤ河を越え、西遼(カラキタイ)からオトラルを奪取し、母方の義弟をオトラル総督(知事)に任じました。その後、アムダリヤ河とシルダリヤ河に挟まれたシルクロードの要地トランス・オクシアナを支配し、首都をサマルカンドに移します。
 12世紀に中国で、女真族(金王朝を建国)により滅ぼされた遼朝耶律大石は西天山山脈に逃れて、1132年シルダリヤ河北岸に仏教国・西遼(カラキタイ)を建国します。ホラズム国によるオトラル占領後、オトラルは仏教圏とイスラム教圏、東ユーラシア民族とトルコ民族との文化境界線上の街になりました。

モンゴル帝国の中央アジア進出

 北方では、遊牧民のテムジンがモンゴル高原の征服事業をつづけ、1206年、モンゴル族のクリルタイ(大会議)にて、チンギス・ハン(遊牧民の君主の意)の称号を受けます。モンゴル帝国の誕生です。モンゴル帝国建国後、チンギス・ハンは1208年に初めて中央アジアに登場しますが、この頃のモンゴル帝国はまだ無名で、主な支配地も辺鄙なモンゴル高原に限られていました。ホラズム王スルタン・ムハンマドは当初、辺境の国モンゴル帝国を軽んじていました。

 チンギス・ハンは、1203年に、金王朝の都・中都に来ていたホラズム国の交易使節団と会っています。チンギス・ハンはすぐにこの西方の国に興味を示し、使節団を派遣しました。ところが、使節団に謁見したホラズム王スルタン・ムハンマドは、チンギス・ハンに対し自分の家臣になるよう要求を告げたのです。中央アジアの大国ホラズム国の王スルタン・ムハンマドにしてみれば、統一されたばかりのモンゴル帝国は文化後進地帯の、取るに足らぬ新興国の一つに過ぎなかったのです。
 チンギス・ハンは、北東諸民族との抗争が一段落つくと西に目を向け、1218年、西遼を併合します。その結果、オトラルはモンゴル帝国とホラズム国の国境最前線の街になります。このときホラズム王スルタン・ムハンマドは、初めてこの北方の国に警戒心を持ちました。

オトラル事件

 1218年秋、チンギス・ハンが友好を求めてホラズム王に派遣した450人からなるムスリム商人(イスラム教徒)を中心とする通商使節団が、ラクダ500頭に中国の金、銀、絹を積んでオトラルに入城した時、オトラル総督は、義兄であるホラズム王スルタン・ムハンマドに報告し了解を得た上で、使節団に密偵の嫌疑をかけ逮捕。金品を強奪し、インド人ラクダ使いただ一人を除いて、全員を虐殺してしまいます。これが歴史上重要な『オトラル事件』です。虐殺されたのは、町を通り過ぎていく通常の隊商隊ではありません。モンゴル帝国の正式な通商を求める使節団です。生き残ったラクダ使いの話を聞いたチンギス・ハンの怒りは凄まじく、復讐のため天の助けを得るべく三日三晩、祈祷を続けたとされています。しかし、すぐに復讐に出ることはしませんでした。正規の外交手続きを踏み、オトラル総督の引渡しと賠償金を要求する抗議使節団をホラズム王に派遣しました。しっかりと筋を通したのです。しかしこの使節団も、二名を除き殺害されてしまいます。当時の東アジアの国際慣例でも使節は殺してはいけないことになっていました。しかしオトラル総督やホラズム王は使節団の財宝の多さに目が眩んでしまったのだというのが、後の元朝側の記述です。歴史は常に勝者の物語ではありますが・・

 髭を剃られる辱めを受けて戻った、二名の使節から報告を受けたチンギス・ハンは、遊牧国家の最高政治大会議クリルタイを開催し、「血には血を、牙には牙を。オクソス河をホラズム人の血で真紅に染めよ」との大命を下しました。オクソス河(オクサス河)とはシルダリヤ河の南、アムダリヤ河のことです。チンギス・ハンは臣下の提言を受け入れ、冬のアルタイ山脈超えを避け、翌夏の出兵を決めます。そしてできた時間を大量の投石器や火砲を作る準備に充てたのでした。いよいよチンギス・ハンの西征が始まります。

 「偶然起きたオトラル事件がチンギス・ハンを仇討のために西へと向かわせた。」「このとき、中央アジア、西アジア、そして東ヨーロッパの運命は決まってしまった。」「もしも、この事件が起きなければ、チンギス・ハンの中央アジア遠征もなく、歴史は変わっていたかもしれない。」「この事件が広大なユーラシア大陸の地図を一変させた。」「オトラル総督の所為で、中央アジア、西アジア、ロシア、そして東ヨーロッパまでもがモンゴル軍により徹底的に破壊、征服された。」「肥沃の都サマルカンドも、残虐な殺戮と破壊にあうこともなく穏やかで平和な都であり続けたであろう。」等々、後の歴史家たちは、幾度も幾度も繰り返し、様々な表現で、『モンゴル帝国西方大遠征のオトラル事件原因説』を語ることとなります。
 本当にそうなのかはさておき、何れにせよ、恐ろしい指導者に率いられた大軍が、西方に向け解き放たれたのです。そこに暮らす人々にとっては災難以外の何ものでもありません。クラコフのラッパ吹きの命運も尽きました。歴史上最大の殺戮と歴史上最悪の破壊が始まってしまったのです。

ホラズム側から見たオトラル事件

 ホラズムシャー朝(ホラズム国)シルクロード交易の仲介で栄えた国です。富をもたらす交易商人をむやみに殺したりはしません。通商使節団を送るなど表面上は友好的ですし、このときのチンギス・ハンには敵意は感じられないように見えます。ところが、その使節団をオトラル総督は殺害してしまうのです。モンゴル帝国の友好の証を、ホラズム国が踏みにじった形です。後に明らかになるモンゴル帝国の圧倒的軍事力を考えたとき、後代の私たちの目には狂気の沙汰に映ります。
 使節団殺害を実行したオトラル総督は、気骨ある勇敢な人物でした。後のモンゴル軍の包囲戦の際、首都サマルカンドがわずか5日で陥落したのに対し、総督自ら守備隊の将を務めたオトラルは5ヶ月も持ち堪えたのです。兵や市民の絶対的な支持があったからです。逃亡する機会もありましたが、忠実に自らの責務を全うしました。そのような人物が、私利私欲や一時の感情に左右され、使節団を殺したとは考えにくいのです。しかし、ホラズム王スルタン・ムハンマドは使節殺害を命じ、オトラル総督は実行しました。それは、警戒心を抱きはじめていたモンゴル帝国から使節団として送り込まれた連中が、サルト商人だったからです。団長ただ一人がモンゴル人でした。

 古代より中央アジアのシルクロードを支配してきたのがソグド商人で、彼らが7世紀後半の『ムグ山の戦い』でアラブに破れ、ザラフシャン同盟(ハンザ同盟の西トルキスタン版)の盟主ペンジケントを始め、組織として壊滅的な打撃を受けた後、広範囲にその利権を継承したのがサルト商人でした。サルト人とは主にイラン系イスラム教徒のオアシス定住民のことで、ときにトルコ系住民も含まれます。チンギス・ハンの時代には遊牧民に対するオアシス民の総称としても使われていました。ゾロアスター教からイスラム教への改宗を拒否したソグド商人に対して、サルト商人はイスラム教徒であり、中央アジアから西アジアまでイスラム世界の内情にも長けていて、シルクロードを旅する中で、様々な情報を持っていました。それらの情報に基づき、早い段階からチンギス・ハンの将来性を買い、モンゴル帝国に取り入っていたのです。シルクロード商人が長大な東西交易路で儲けるには、山賊対策も含め、交易路の安全を担保してくれる軍事力を持った後ろ盾が必要です。長いシルクロードを安全に往来するには、その軍事力は強大なら強大なほど良いのです。それまで、サルト商人はホラズム国の庇護下で交易を営んでいたのですが、商人の嗅覚がモンゴル帝国を先物買いさせ、チンギス・ハンの取り巻きになったのです。

 チンギス・ハンはシルクロードの交易を保護したことでも知られています。残忍な征服者チンギス・ハンは、実は経済にも通じていました。大帝国は軍事力だけでは築けません。モンゴル帝国は遊牧騎馬民族国家であり原則、牧畜という自給自足経済で成立しています。また騎馬民族なので略奪行為も可能です。金品を手に入れるために、わざわざ隊商を保護する必要はありません。アラブ侵入以前の中央アジアでは、遊牧騎馬民族・突厥とソグド商人の間で、隊商の保護と絹の献上のような相互依存の関係が成り立っていました。しかし、後述するようにチンギス・ハンは経済には明るくても、金品などの富には無関心だったのです。サルト商人の交易路を保護する代わりに、チンギス・ハンが得ていたものは他国の情報でした。サルト商人は隊商の立場を利用し、各国の各都市で宮殿や城、城主の館などにも入り込み、情報をチンギス・ハンに報告していたのです。チンギス・ハンの軍事作戦は緻密な計画に基づいていました。現代戦にも劣らない徹底した情報収集から始め、情報分析した上で、敵を圧倒する戦力で一挙に攻め入ります。残虐な攻撃性と勇猛さ、騎馬民族の機動性だけで勝利していたわけではないのです。そして、情報収集の手先となって活動したのがサルト商人でした。チンギス・ハンの目となり耳となっていたサルト商人は、まさにモンゴル帝国の諜報機関でした。

 ホラズム国から見れば、寝返ったサルト商人は裏切り者です。しかも同じイスラム教徒なのにです。当然ですがスルタン・ムハンマドは、サルト商人に対して非常な敵意を持っていました。確かに450名は正式なモンゴル帝国の通商使節団ではありましたが、同時にチンギス・ハンのホラズム征服計画のための大スパイ団でもあったのです。そして、ホラズム国の側も当然それをわかっていました。ホラズム国の取りあえずの選択肢は、全員を永久に逮捕抑留するか、処刑するかしかありませんでした。勾留してチンギス・ハンから釈放の圧力を受け続けるくらいなら、処刑を選ぶしか他に手は残されていなかったのです。使節団を返せば情報が漏洩する、返さなければ攻撃の口実を与えてしまう。チンギス・ハンの王手飛車取りにホラズム国は詰んでいました。以後始まるモンゴル帝国によるユーラシア大陸での大虐殺の責任は、決してオトラル総督にあったわけではありません。スルタン・ムハンマドも、国を破滅させた無能な君主ではなく、義弟オトラル総督と共に的確な危機察知能力を有していたのです。
 ただ、モンゴル帝国とチンギス・ハンの力を見誤っていたのです。情報さえ漏れなければ、数で圧倒するホラズム軍に戦いを挑まないであろうと。オトラル事件はきっかけには違いありませんが、オトラル事件が起ころうと起こるまいと、チンギス・ハンは広大な西方の国々の征服に挑戦するつもりでした。陸地が続く限り馬を駆り、地の果てまで進むつもりだったのです。

オトラル包囲とホラズム征服

 翌1219年ホラズム侵攻を始めたモンゴル軍は、9月にオトラルに到達。チンギスは『オトラル包囲戦』を息子たちに任せ、自らはホラズムの中心部、ブハラとサマルカンドの攻略に向かいます。オトラルは5ヶ月の包囲戦の後、陥落します。城壁は破壊され、女子供を問わず住民は斬殺されるか、『ブハラ包囲戦(1220年)』のための「人間の盾」として連行されました。モンゴル帝国の悪名高い大殺戮の始まりでした。進軍を開始したモンゴル軍は、その数15万から20万。迎え撃つホラズム軍の兵力は40万。数ではホラズム軍が圧倒的ですが、何分、質が伴いませんでした。チンギス・ハンに絶対服従と忠誠を誓い、熾烈なモンゴル統一戦争を勝ち抜いたモンゴル軍に比べると、西アジア各国を支配したホラズム軍は混成軍であり、寄らば大樹の陰で集った将兵たちに忠誠心は見られませんでした。捕まったオトラル総督はサマルカンドにいたチンギス・ハンの前に引き出され、溶かした銀を両目両耳に流し込まれて残忍に殺されます。蛮行と言えるこの処刑は、モンゴル帝国の残忍さの象徴になりました。ホラズム王スルタン・ムハンマドは追い詰められ、カスピ海の小島へと逃亡しましたが、肺病で亡くなります。アッバース朝までも打ち破り、カスピ海からペルシャ湾まで領有した強大なホラズム国(ホラズムシャー朝)は、こうして征服され滅びました。

ファイル:Mort de Muhammad Hwârazmshâh.jpeg [スルタン・ムハンマドの死]

 1219年のホレズム討伐以後、5年にわたるモンゴル軍の席巻で、中央アジアは徹底的に破壊し尽くされました。サマルカンド、ブハラ、テルメズ、クフナ・ウルゲンチ(『[旧]ウルゲンチ包囲戦(1221年)』)。どの都市も被害は甚大でした。『千夜一夜物語』にも登場する当時の100万人都市メルヴ(現トルクメニスタンのマリィ)に至ってはその後、復興することはついにありませんでした。チンギス・ハンのソグディアナ侵出の目的は、オトラル事件に端を発した、ホラズム王への復讐とホラズム国の抹殺ですが、ホラズム討伐後も留まることのない西方遠征が続けられ、遠く遠く東ヨーロッパまで侵攻していきます。遠征の目的は、初めから別の所にあったのです。
 『サマルカンド包囲戦(1220年)』では、2万のモンゴル軍以外に、敵のホラズム兵や農民の捕虜5万が「人間の盾」として使われ、この首都はモンゴル軍の包囲から5日目に陥落します。オアシス都市サマルカンドは富裕な都でした。8世紀半ばから紙の製造(サマルカンド・ペーパー)でも有名です。話しは少し逸れますが、紙は中国で後漢時代(1世紀)に蔡倫によって発明されました。東アジアに定着した手漉き紙の文化は、唐とアラブが戦った『タラス河畔の戦い(751年)』で捕虜になった、唐の紙漉き職人によりサマルカンドにもたらされ、そこで羊皮紙(パーチメント)の文化と交差します。毛筆用ではなく、羽根ペンで文字が書けるサマルカンドペーパーの誕生です。それは「シルク・ペーパー」とも評されました。欧州近代製紙のルーツであるこの紙は、8世紀のアラブを経由して12世紀にスペインにまで渡ります。そして明治時代になると、地球を逆回りして日本でも普及するのです。閑話休題、チンギス・ハンはサマルカンドの城壁や宮殿だけではなく、製紙産業や紙漉きの文化も破壊しました。そこから得られる富などには関心がなかったのです(現在、サマルカンド近郊のシオブ河が流れる水車の村・コニギルにて、サマルカンド・ペーパーの伝統復興活動がJICAの支援の下、日本のNPO法人により行われています)。

 モンゴル軍は、馬のもつ機動性に物をいわせ、疾風のように襲い、今必要なものだけを略奪し、再び疾風のように立ち去りました。事前の情報分析は近代的なのに、実戦の戦闘方法は原始的でした。チンギス・ハンは富や財宝に興味もなく、領土にも執着せず、略奪も目的ではなく征服を実感するための手段に過ぎません。本来、チンギス・ハンはステップ(草原地帯)以外の領土拡張は考えていなかったようです。彼は、征服し、敗北者たちを見て、達成感を味わっていました。権威や権力を誇示したいがために他国を征服した訳でもありません。征服そのものがチンギス・ハンの目的、そして生き甲斐だったのです。

 もっとも後の彼の一族が、全てそうだったわけではありません。中世最大の旅行家イブン・バトゥータの「三大陸周遊記」には、モンゴル帝国の後継国家のひとつ、キプチャク・ハン国の首都サライ(現カスピ海北方)で、中国やインドから届いた莫大な財宝に囲まれて、豊かな暮らしを送るチンギス・ハンの末裔たちの姿が記述されています。チンギス・ハンの金朝征服戦争(1212~1215年)では、北の金と南の南宋を合わせて5000万人いた中国の人口が900万人にまで減少していますが、後の元朝をモンゴル型遊牧国家から中国風の王朝に変容させ、都市に富を集めたのも彼の子孫たちです。

 モンゴル軍を率いるチンギス・ハンは生涯、草原の民に終始しました。終生、外国語は学ばず、艶やかな中華文明やペルシャ文明、仏教やイスラム教など都市文化にも全く関心を持たず、常に天を敬い、遊牧騎馬民族の伝統的シャーマニズムに徹していたのです。蒼き狼は、都市の堕落した文明を嫌っていました。征服された都市はつぎつぎと破壊されていきました。住民の虐殺と文化の抹殺を伴って。

②オアシスの覇者

 オトラルはその後、モンゴル帝国の支配下で再興し、キプチャク・ハン国に引き継がれ、係争の後、チャガタイ・ハン国によって奪取されます。そしてティムール朝時代に200年の時を経て、再び歴史の表舞台に登場します。ティムール最後の場所として。

鉄の名を持つ男

 チンギス・ハンの第2子チャガタイは、1227年、中央アジアのアルマリク(唐代の「弓月城」、現新疆イーニン近郊)を都に遊牧国家チャガタイ・ハン国を建設します。この国はイスラム系・トルコ系を受け容れながら東西貿易の要路を地盤として栄え、オアシス地域を支配していきましたが、100年後に東西分裂を起こし、天山地方(現新疆ウイグル)を中心に東チャガタイ・ハン国、西トルキスタン(現ウズベキスタンとカザフスタン南部)を中心に西チャガタイ・ハン国として勢力を分けます。西チャガタイでは内紛が絶えず、しばしば東チャガタイの攻撃を受けたため、その勢力は弱体化していきます。

 その頃、中央アジア・サマルカンドの南方に、トルコ系モンゴル人の分枝であるバルラス部という部族がいました。イスラム教を受容した貴族であり、先祖はチャガタイに仕えた将軍とされています。14世紀にはこの一族も衰え、2、3人の家臣を持つにすぎない小貴族になっていましたが、1336年、ケシュ(現シャフリサブズ)近郊でこの貴族から一人の男の子が誕生します。これがティムールです。バルラス部とチンギス・ハンの祖先は同じ、とする伝承があり、チンギス・ハンの子孫をティムール本人も名乗ったとされていますが、事実はチャガタイ・ハン国に仕える小貴族の出身です。 しかし彼がチンギス・ハンを意識し、チンギス・ハンの征服事業を超える偉業を目指し、モンゴル帝国のスケールに並ぶイスラム世界帝国を築くことを理想としていたことは後の業績から、疑いようがありません。ティムールとはを意味していて、強い武将のイメージですが、チンギス・ハン同様に人心の掌握にも長け、君主としての高い適性を持っていました。

チンギスは破壊し、ティムールは建設した

 若い頃には家畜の略奪などを行っていたティムールは、次第に軍事的・政治的才能を現し、1369年、西チャガタイ・ハン国の混乱に乗じてサマルカンドを獲得します。1376年、ティムールは西チャガタイ・ハン国の支配下で、軍事・交通の要衝であったオトラルを征服します。その後、東西チャガタイ・ハン国を統合し、またイル・ハン国やキプチャク・ハン国といったかつてのモンゴル帝国の分枝の旧領を次々と支配下に治めていきます。サマルカンドを都とするティムール朝はこうして誕生し、中央アジア全域を治める帝国になりました。今のオトラル遺跡には、14世紀の浴場跡や、中央アジア一帯で『シャハリスタン』と呼ばれる貴族居住地区の城壁跡(14~15世紀)などが残り、ティムール時代の建造とも言われています。

 ティムールは、1398年の『北インド遠征』によりデリー・スルタン王朝に打撃を与え、1402年には『アンカラの戦い』でオスマン・トルコに勝利します。こうしてティムール朝は、一代で中央アジアから西アジアに及ぶ大帝国となりました。オスマン朝との戦闘の際、ダマスカスの街の丸屋根を見て新しい建築のアイデアを得たティムールは、多くのイスラム建築家たちをダマスカスからサマルカンドへと連行し、ティムール好みに円蓋が膨らんだ、ティムール朝独特のドーム建築文化を、首都サマルカンドを中心に花開かせます。代表作はテュルケスタンに残る世界遺産ヤサウィー廟です。

 外征だけではなく国内政策にも注力し、首都サマルカンドを整備、人口集中を行い大都市に造り上げます。サマルカンドは中央アジアにおける政治・経済・文化の中心地となり繁栄しました。ティムールの戦争はほぼ全勝に近く、卓越した軍事的才能を持っていましたが、「チンギスは破壊し、ティムールは建設した。」と言われるように、彼は偉大なる都市建設者でもありました。特にその建築文化は、5世代後の彼の子孫で、若き日をサマルカンドで過ごしたバーブルにより、ムガル朝建国と同時にインドに持ち込まれます。そして第5代皇帝シャー・ジャハーンの時代にタージマハルの屋根のフォルムに結実します(19世紀中頃、イギリスに征服されるまでティムール王朝は、インドでムガル朝と名を変えて続いていました)。サファヴィー朝のイスファハンもその文化的影響下で造られた都市ですし、ロシアにおいてはビザンチン様式のクーポラ(円蓋)と融合し独特のネギ坊主に昇華します。アグラのタージマハルも、イスファハンのイマーム・モスク(王のモスク)も、モスクワ赤の広場のワシリー寺院も、全てティムールがダマスカスの建築家たちを連行したことが起因であると考えると、一般に思われている以上にティムールは、後世に大きな影響を残している人物なのです。

オトラルに死す

 ティムール存命中のティムール朝は、モンゴル帝国の伝統要素も取り入れたイスラム国家で、チンギス・ハンの血を引く家系から王妃を迎えて、血統的にも帝国の支配をより強固なものにしていました。ティムールは、チンギス・ハンと同族の名家の子孫との噂が領民からも湧き起こるぐらい、最もチンギス・ハンに近い男とされていました。
 チンギス・ハンの偉業を継承し、それを超える業績を残そうとしたティムールの次なる標的は東アジアです。中国にはティムール朝と同時期の1368年に建国された明王朝がありました。モンゴル帝国の旧領土すべての獲得を目指していたティムールは、1404年11月、明討伐のためサマルカンドを出発します。そして、帝国各地の20万の軍勢をオトラルに召集します。かつて、東アジアと中央アジアの境界であったオトラルこそ、東方遠征の出陣に相応しい土地です。

 明王朝はモンゴル帝国の後継国家元朝を滅ぼしたという点でティムールの仇敵でしたが、それだけではなく、明朝の実情は歴史上の中国征服王朝と同じく完全に漢化していたとしても、その形式上の国名はイスラムにとっての邪教ゾロアスター教(拝火教)の流れを汲むマニ教に由来しています。マニ教は中国で明教とも表示し、明とは、『光と闇の二元論』の光の意味です。『明』という国号はこれに由来します。明朝を建てた白蓮教徒たちが火を崇拝していたことは、今の中国人にとっても常識です。当然、ティムールとしては絶対に倒さなければならない相手です。

 しかし明朝打倒の夢かなわず、翌1405年2月、ティムールはオトラルに当時いくつかあった宮殿の一つで病に倒れました。寒さからきた肺炎だったようです。チンギス・ハンの偉業を超えるユーラシア大陸征服の夢はここに潰えました。「二度目は茶番」だったのでしょうか。いいえ、チンギス・ハンとは異なり、彼は偉大な都市文化を花開かせて逝ったのです。

 アレキサンダー帝国やモンゴル帝国のように、一人の天才によって築かれた大帝国は彼らの死後、必ずや後継者争い、相続や領土分割に国力を割かれ、領土拡張をやめてしまいます。ティムール朝もその例に漏れず、後継者たちは中国遠征を放棄してしまいました。

オトラルの衰亡

 ティムールが没した後もオトラルは、15世紀末にはウズベク族のシャイバーニー朝、16世紀にはカザフ・ハン国の支配下で、再び繁栄しますが、17世紀後半、『最後の遊牧帝国』といわれるジュンガル帝国によって破壊され、18世紀、この地方におけるオトラルの重要性は大きく低下してしまいました。18世紀末には40家族が暮らすだけとなり、19世紀初頭まで数十人が居住していたようです。その後、オアシスの水源が枯渇し、衰亡し放棄され、流砂に埋もれ、廃墟となったとされています。
 今のオトラルは、カザフスタン第3の都市『草原の都市』を意味する街シュムケント(旧チムケント、もとはオアシス都市サイラムのためのキャラバンサライの集落でしたが、やはりここもモンゴル軍によって破壊されました)の北西、シルダリヤ河右岸の草原にある廃墟となった遺跡です。現在、モスク跡、宮殿跡、浴場跡、シャハリスタンなどが見つかっていますが、大部分は未だテペ(テパ)と呼ばれる丘の下に埋もれていて、今も発掘が続けられています。

 「チンギス・ハンは破壊し、ティムールは建設した。」という言葉は、オトラルにも当て嵌ります。でもそれは当然でした。草原のゲルで育ち、遊牧騎馬民族として都市文化を嫌い、征服を生き甲斐にしたチンギス・ハンと、オアシス都市出身で、シルクロード、イスラム、ペルシャなど多様な都市文化の中で育ったティムール。彼らの生い立ちとその時代が、歴史に大きな傷跡と偉大な足跡の両方を刻ませたのです。(湯田菜都美)
  

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