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古テルメズの歴史 History of ex-Termez

Column古テルメズの歴史 History of ex-Termez
↑ 40人の乙女の宮殿(キルク・キズ)

 

 ウズベキスタン最南部の街、現在のテルメズから数キロ東に位置していた古テルメズは、今から2500年以上前に都市が建設されたとされていますが、その詳細は不明です(フランスの考古学チームが近くのカンプィルテパ遺跡から2500年以上前の遺品を発掘しています)。少なくとも前6世紀にはアケメネス朝ペルシャの人たちに、中央アジア・バクトリア地方のテルメズの街の存在は知られていました。

  元前329年、当時、アムダリヤ河における唯一の「渡し」機能を持っていた場所、テルメズ近郊30kmのカンプィルテパにて、全軍を6日間かけて渡河させたアレキサンダー大王はテルメズを征服し、ギリシャ人たちはここをギリシャ語で「暑い土地」を意味した「テルメズ」と命名しました。のちに、この地方におけるアレキサンダーの後継国家グレコ・バクトリア王国の第4代国王デメトリオス1世により、デメトリスと改名されます。

  デメトリオス1世はインドのマウリヤ朝滅亡後のガンダーラ地方にその支配区域を広げ、アレキサンダー時代に決まった東西世界の自然の境界線を消滅させてしまいます。そのため、逆に後代、北西インドに勃興したクシャン朝によるバクトリア征服も容易になり、テルメズもまたその支配下に置かれます。その結果、カニシカ王時代になるとクシャン朝の仏教文化が中央アジアに流れ込み、テルメズはその中心地となりました。中国では「トゥミ」、または「タミ」と発音され、呾蜜怛満といった漢字が当てられました。7世紀の大唐西域記にも「呾蜜国」として表記され、玄奘は伽藍が十余箇所あることを伝えています。

 7世紀まで仏教はテルメズの主要宗教でした。この時代のものとして、ユネスコ世界遺産情報照会暫定リストカラテパ遺跡[2~3世紀]には僧院跡、仏塔跡、僧坊跡が、ファヤズテパ遺跡[1~3世紀]には三尊仏、僧院跡、2世紀のストゥーパなどが残されています。カラテパは、北の丘、西の丘、南の丘の3つの地区に分かれていますが、このうちの北の丘において、1998年春、中央アジア史家・加藤九祚教授による調査チームが大ストゥーパを発見しています。カラテパでは1938年に玄奘三蔵も言及している仏教施設も発見されています。

↑ ファヤズテパ遺跡 

 

 街は5世紀には遊牧国家エフタルの、6世紀にはササン朝ペルシャの支配下に置かれます。7世紀には北方の遊牧騎馬国家突厥の保護の下、地元出身者によるテルメズ王朝の都になりますが、705年、アラブ人の侵略を受け、その後、アッバース朝サマーン朝の時代には、街はバクトリアにおけるイスラム教の中心地となりました。9世紀から12世紀にかけては、カラハン朝セルジューク朝トルコガズニ朝の支配下で、街はイスラム・中央アジア文化の中心地としてだけでなく、シルクロードの一大マーケットとして、さらに工芸の都市として全盛期を向かえ、9つの城門を持つ全長16kmの城壁で囲われていました。

↑ 40人の乙女の宮殿(キルク・キズ)

 

  1206年からテルメズを支配したホラズム・シャー朝のもとで、イスラム教による偶像禁止が徹底され、仏像が破壊され、1220年チンギスハンの西征(ホラズム征伐)よる2日間の包囲によって街は完全に破壊されてしまいます。オトラル事件を起こしたホラズム王スルタン・ムハンマドの巻き添えです。13世紀後半にはティムール朝の時代、『チンギスは破壊し、ティムールは建設した』との言葉どおり、北方3キロの場所に街は復元され、ティムールの師がこの街の出身者であったこともあり一時的な繁栄を取り戻しはしますが、17世紀になるとサファヴィー朝ペルシャオスマン朝トルコの混乱の下、街は再度破壊され、18世紀後半、この歴史的都市は住民から放棄されてしまいます。現在はかつての古代都市の近くにサラヴァットとパッタケサールという小さな村落が2つ残るのみです