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西ボヘミアの森の奥深く、ベチョフ城に眠る秘宝《聖マウロの遺物箱》

Column西ボヘミアの森の奥深く、ベチョフ城に眠る秘宝《聖マウロの遺物箱》

 チェコ・西ボヘミアのカルロヴィヴァリ温泉の南、ロマンチックなカイザーヴァルト皇帝の森/チェコ名:スラフコフスキーレス]の中央部、テプラ川右岸の小さな町にベチョフ・ナト・テプロウ城(テプラ川のベチョフ城)という古城があります。この城の起源は13世紀にまで遡ります。中世には金・銀・錫の鉱山がこの地域で栄え、その鉱業の保護のために貴族のプルホヴェー家がここに最初の城を建造しました。14世紀初頭に、以後200年にわたりこの地を支配した領主オシェクによって、ゴシック様式の現在の城が小高い丘の頂上に築かれました。15世紀後半から16世紀前半のラブシュテイン公プルスの時代に、敷石と壁絵、そして城の中庭は礼拝堂の四角い塔とプルウ宮殿と厩舎に囲まれ、ルネサンス・スタイルに改装・改築されました。17世紀にヨーロッパで三十年戦争が起きるまで、城や城下町は錫鉱山を中心として発展してきました。1621年の火災で町は焼かれ、1648年にはスウェーデン軍により城は破壊されてしまいましたが、ユニークなゴシック調とルネサンス調の壁画がその当時の姿を現在も留めています。18世紀、別の貴族によって、この中世の古いベチョフ城の下に隣接してルネサンス時代の建物を改修したバロック様式のベチョフ宮殿も建てられました。19世紀にロマン主義の建築家たちの改修案が出されましたが、ほとんど実行されず、現在も中世の趣を保っています。

 そしてこのベチョフ城には現在、『聖マウロの遺物箱』と呼ばれるロマネスク様式の聖骨箱が保管されています。この聖遺物箱は中世の金細工作品の中でも特に美しい作品の一つで、チェコ共和国では聖ヴァーツラフ王冠など戴冠式の宝物に次いで2番目に重要な歴史的芸術的文物であると考えられています。そしてこの黄金で装飾を施した遺物箱は、波乱に満ちた興味深い歴史を持っているのです。それはまるで探偵小説のようなお話です。

 この遺物箱は13世紀の初めに、ベルギー・ナミュール近郊のフロレンヌ修道院で作られました。元々は洗礼者ヨハネと聖テモテ(パウロの弟子)の遺骨の一部を安置するためでしたが、後に聖マウロ(聖ベネディクトの弟子、グランフォイ大修道院長、584年没)の遺骨も追加されています。木製の枠組みが金張りされた銀板で覆われ、十二使徒を含む数多くの小さな彫像、精巧なロマネスク様式の金銀彫刻、フィリグリー文様、たくさんの宝石で飾られています。フランス革命で修道院が解体させられると遺物箱は地元の教会に移され、1838年にアルフレド・ド・ボーフォール・スポンタン公爵によって買い取られました。公爵は破損していた遺物箱を修復し、1885年のブリュッセルでの展覧会に出品したのち、1888年に自らの所領にあるベチョフ城へと箱を移しました。

 ボーフォール家は第二次大戦中、ナチス党と協力関係にあり、ドイツ国籍を取得していたため、1945年、終戦を迎えるとチェコを追放され、ドイツ移住を余儀なくされました。戦争終結の少し前、侵攻してきたソ連軍による没収を避けるため、遺物箱は城内礼拝堂の床下に埋められ、その甲斐があってか、箱の存在は人々から忘れ去られてしまいました。

 1984年、ダニー・ダグラスというアメリカ人実業家が、ウィーンの大使館経由でチェコスロバキア当局に対して、ある申し出を行いました。それは、現在、チェコスロバキアで誰も所有権を主張しておらず、しかもその存在が確認されていない“ある物”をチェコのどこかで探し出し、それを検査無しでアメリカに持ち出す権利を得る代わりに25万ドルを払いたいというものでした。彼は手の内を明かしませんでしたが、当時、外貨不足にあった共産党政権は1985年に許可を出す一方で、“かつて貴族が所有していた”などの彼が語った数少ない情報の断片から、“ある物”の正体の確認と捜索を捜査当局に指示していました。ときの連邦捜査局長、フランティシェク・マリシュカ法学博士がその作戦指揮をとることになりましたが、手がかりはあまりにも少なく、ほぼ絶望的な状況でした。

 アメリカ人の語ったほんのわずかな手がかりと戦後、語られていた「黄金伝説」から、マリシュカのチームはチェコ各地の図書館や資料館での徹底的な文献調査の結果、“ある物”が隠されている可能性のある場所を、ドイツ国境近くの5ヶ所に絞り込みました。そして、そのアメリカ人がチェコ国内での調査開始を許可されている日まで残すところ3週間に迫ったとき、マリシュカのチームは“ある物”の所在地をベチョフ城とその周辺に限定できました。警察を中心とした大規模なチームが組まれ、金属探知機を使って、庭園や城外のいくつかの場所に穴を掘って調べましたが何も見つかりませんでした。冬が近づき天候が悪化しはじめたとき、マリシュカたちはあることに気がついたのです。アメリカ人は調査開始許可日が冬なのに、積雪や大地が凍ることを心配していなかったという点です。チームは“ある物”は建物の内部にあるはずだと確信しました。城の床下、隠し部屋、隠し扉が徹底的に調べあげられ、1985年11月5日、ついにベチョフ城の古い礼拝堂の床下から『聖マウロの遺物箱』を発見したのでした。

 箱は40年間の長きにわたり湿気の多い床下に隠されていたため、腐食が進んでいました。チェコ当局は箱の国外への持ち出しを拒否し、アメリカ人との所有権問題を解決した後、1991年、プラハ国立美術工芸博物館とドイツ・アーヘンの専門家に修復を依頼しました。10年かけた復元は2002年に完了し、この美術品はベチョフ城に返還されました。『聖マウロの遺物箱』はプラハ城での一般公開を経て、現在、ベチョフ城で展示されています。


『ボヘミアの森と古都から南ボヘミア大草原へ』

2018/08/30発

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