Colum ヘレニズム文明の源流のひとつ・フリギア王国とトルコの新世界遺産・ゴルディオン

Colum ヘレニズム文明の源流のひとつ・フリギア王国とトルコの新世界遺産・ゴルディオン

ヘレニズム文明の源流のひとつ・フリギア王国とトルコの新世界遺産・ゴルディオン

 

 フリギア人は、インド・ヨーロッパ語族のフリギア語を話す人々で、おそらくヨーロッパから紀元前12世紀頃移住してこのアナトリア(=小アジア、現在のトルコ主要部)を支配し、紀元前8世紀に建国したと考えられています。しかし紀元前7世紀末頃から異民族の支配に屈し、その後アケメネス朝ペルシャ、アレクサンダー大王とその後継者たちに支配されたのち、やがて古代ローマ帝国に併合され、フリギアという名称は帝国内の一地域名としてだけ記録に残されます。フリギア語は紀元後6世紀頃までアナトリアで使われていました。

 

神話 ~ 「ゴルディアスの結び目」「王様の耳はロバの耳」「トロイの木馬」

 

 神話に登場する代表的なフリギアの王はゴルディアス王ミダス王です。トロイ戦争より前、今から3000年以上昔、ミグドン王やデォマス王の時代、貴族たちが権力争いに明け暮れたフリギアでは、神託によって予告されていた大洪水が国を飲み込み、名門貴族たちのお世継ぎが全くいなくなり、その空位時代に、貧しい農夫ゴルディアスが神託に従って初代の王となったとされています。

フリギア人たちはサバジオス神(古代ギリシャでのゼウス神に該当)の神託に導きを求め、馬車に乗ってこの神殿に初めて登って来た者を王として称賛するよう命じられていました。そののち、サバジオスの神殿に初めて牛車でやって来た男がゴルディアスだったのです。にわかには信じがたい神託でしたが、ゴルディアスの牛車には、神の使いの鷲がとまっていたため、それを見た巫女が、彼こそが次の王だと高らかに叫び、ゴルディアスは王として迎いいれられました。彼はアナトリアを縦貫する街道(後世のアケメネス朝ペルシャの「王の道」)の集落に王都ゴルディオン(ローマ名ゴルディウム)を建設し、神託への感謝を示すため、乗ってきた牛車をサバジオス神に奉納し、丈夫な紐で荷車の轅をそれまで誰も見たことがなかったほどにしっかりとサバジオス神殿の柱(またはアクロポリスの馬車止め)に結びつけ、「この結び目を解くことができた者こそ、このアジアの王になるであろう」と予言しました。これが世にいう『ゴルディアスの結び目(ゴーディアン・ノット)』です。結び目を解こうと多くの人たちが挑みましたが、この複雑な結び目は決して解けることはありませんでした。

数百年の後、東方遠征中のマケドニアのアレクサンダー大王がこの地を訪れました。彼もこの結び目に挑みましたが、やはり解くことができませんでした。すると大王はやおら剣を持ち出し、その結び目を一刀両断にしてしまい、固く結ばれた轅はいとも簡単に神殿の柱から離れたのでした。そのときゼウスが大王を祝福する雷鳴が天空に轟いたと言われています。後にアレクサンダー大王は西アジア、中央アジア、南アジアで次々と勝利を飾り、ゴルディアスの予言通りにアジアの王となったのでした。

次の伝説的な王・ミダス王はいろいろな神話に登場します。いわゆる通称「ミダス墳丘」は紀元前8世紀のもので、紀元前709年の古代アッシリアの記録には、ミダス王らしき人物がアッシリア皇帝サルゴン2世の同盟者として登場します。一方で現在、本物のミダス王のものと推察されている墓は紀元前6世紀のものです。トラキア(現ブルガリア)にいたミダスは、酩酊した半獣神シレノスを助けたことで、ワインと酩酊の神ディオニュソス(ローマのバッカス)に感謝され、その返礼として、触れたもの全てを黄金にする、『ミダス・タッチ』または『黄金のタッチ(ゴールデン・タッチ)』として知られる能力をもらいました。しかし食べ物までも黄金にしてしまうこの手に困り、エーゲ海にそそぐアナトリアの聖なる川サルト・チャイ川の水でこの穢れを祓うためにミダス王はバルカンから民の一団を引き連れて、小アジアへとやってきました。彼は「砂金の起源」とされる黄金をこのサルト・チャイ川に残し、アナトリアの中心地フリギアに移り住みます。その地で子供のいない王ゴルディアスの養子となりました。その地でのミダスの振舞いは女神キュベレーの目にとまり、彼女の権限の下、ミダスはフリギア王の後継者に指名されたのでした。

古代ギリシャの歴史家ヘロドトスによると、ミダス王はデルフィ「アポロンの聖域」に供物を捧げ、玉座を奉献した最初の非ギリシャ人です。また、トルコ中央部のディナールで行われた「神託と竪琴の神アポロンと牧神パンによる音楽の腕比べ」のとき、吟遊詩人オルフェから音楽の指導を受けたとされているミダス王が審査員を務め,パンの笛に軍配をあげました。怒ったアポロンは「貴様の耳はロバの耳か!」といった皮肉を込めてミダス王にロバの耳をつけてしまいます。王の床屋だけが国家機密としてこの事実を知りましたが,他言は絶対禁止です。それでもこの秘密を誰かに話したくて、どうにも我慢ができず、地面に穴を掘って思いっきりこの秘密を喋り、穴を埋めなおしました。するとみるみるうちにその場所に葦が生えてきて,風が吹くたびに『王様の耳はロバの耳』と囁いたといわれています。ちなみに、一般的に知られたギリシャ神話では、竪琴を奏でるアポロンと腕比べを行ったのは、オーボエを吹くマルシュアスだとされています。審判を務めた、技芸と音楽の女神ミューズ(ムーサ)がアポロンの配下であったため、アポロンが勝ったことになっています。無謀にも、アポロンに挑んだマルシュアスは悲惨な最期を遂げます。

古代ギリシャの詩人ホメロス『イーリアス』には、神話的なフリギアの歴史がたびたび描かれています。ホメロスによれば、フリギア人の国家は初め、ニカイア周辺、イズミット湾の東、サパンジャ湖の南を流れるサカリヤ川の畔に建設されました。現在残るフルギア遺跡群からはなり西にあたります。

ホメロスは、フリギア人はトロイの同盟者だとも記しています。トロイ戦争の1世代前のトロイの王プリアモスは、若い頃、フリギアのミグドン王がレスボス島から来たアマゾネスに襲われた際にこれを助けました。羊飼いパリスやカサンドラの父で、ハンサムなプリアモスの妻はサカリヤ川沿いに住んでいたフリギア王ディマスの娘とされています。トロイ戦争中にはフリギア人たちは軍隊をトロイ支援のため派遣しました。 参戦したフリギアの王子は『トロイの木馬』の王女カサンドラとの結婚を求めて訴訟を起こしたりしています。ホメロスによると、のちにフリギア人たちはサカリヤ川の畔から、アンカラの東方に移住したとされています。

 

歴史 ~ 騎馬民族キンメリア・アケメネス朝ペルシャ・アレクサンダー大王

 

ブリゲスという名前でバルカン半島南部に住んでいたフリギア人は紀元前12世紀頃アナトリアに入ったとみられています。ギリシャの資料では、フリギア人の小アジアへの移住はトロイ戦争直後に起こったと言及されています。丁度、アナトリア中央部のヒッタイト帝国が崩壊した頃(紀元前1180年頃)に当たりますが、フリギアが直接、ヒッタイト崩壊に関わったのか、それともただアナトリアの混乱に乗じてやってきただけなのかはわかっていません。このフリギア人移民説は現代の多くの歴史家によって擁護されている一方で、ほとんどの考古学者は実質的な考古学的証拠が欠如していることを理由に、フリギア人の起源に関する移民仮説を放棄しており、移民説は歴史家ヘロドトスと古代ギリシャにあった都市国家テーバイの王クサントスの記述のみに基づいています。前述のとおり、フリギアは紀元前8~7世紀にかけて、ゴルディアスとミダスの二人の王のもとで、ギリシャやオリエントの国々との交易を担い繁栄しました。アナトリア東部はメソポタミアの影響を強く受け、その地の覇権はしばしば変化、混乱しましたがフリギアは、ウラルトゥ王国スキタイアッシリア帝国など、それらいずれの東方諸国とも共存できていたようです。東アナトリアの雄メディア王国[紀元前7世紀~550年]とも良好な関係を保っていました。

紀元前8世紀から7世紀頃のミダス王の治世中、騎馬民族スキタイの移動によりウクライナから追い出されて来た遊牧騎馬民族キンメリア人のアナトリア侵略によって、独立フリギア人国家の歴史は終わりを告げました。ローマの地理学者ストラボンによれば、フリギア王国最後の王ミダスはキンメリア人の攻撃に遭い、紀元前710年、アッシリア王サルゴン2世に助けを求めざるを得なくなり、キンメリア人が都ゴルディオンを制圧したとき、ミダス王は雄牛の血を飲んで自害したとされています。ヘロドトスも、首都ゴルディオンは紀元前696年、キンメリア人の手に落ち、略奪され、焼き払われたと記していますし、考古学的にもゴルディオンは紀元前675年頃に激しく破壊されたことが発掘調査で明らかにされています。ヘロドトスは、アルメニア人こそが紀元前7世紀頃キンメリア人の侵略を逃れてヴァン湖周辺に移住したフリギア人入植者の子孫だと書いていますが、フリギア語とアルメニア語の関連性は認められても、言語学的な関係を確実も証明するには至っていません。

その後、プラトン『国家』の中で「正義」論が展開される『ギュゲースの指輪』で記憶されるリュディア王国がキンメリア人たちをアナトリアから追い出しましたが、フリギア自体は『日食の戦い(紀元前585年)』で知られるリュディア王アリュアッテスにより占領されます。続いてアケメネス朝ペルシャキュロス2世(大王)がこの地を征服し、さらにダレイオス1世(紀元前522年即位)が古くからの交易路を『王の道』として整備し、総督府を置いて支配しました。これ以後、フリギア人は文化的独自性を失い、そののち、ヘレニズム文化やローマ文化に影響を与えながらも、それらの文化に完全に染まっていきます。

紀元前333年、アレクサンダー大王は再建されたゴルディオンを占領し、フリギアはヘレニズム世界の一部となりました。大王の死後、帝国を分割するバビロン会議[紀元前323年]ののち、後継者戦争(ディアドコイ戦争)[紀元前323年~281年]が勃発します。特にアナトリアは覇権をめぐるヘレニズム国家間の争いの激しい舞台となりました。当初はアンティゴノス朝マケドニア王国「独眼竜」アンティゴノス1世がフリギアの地を治めましたが、フリギアの地を舞台にしたイプソスの戦い[紀元前301年]にて、マケドニア王リュシマコスセレウコス朝シリアのセレウコス1世の連合軍がアンティゴノス1世を破ると、リュシマコスがフリギアを統治しますが、やがてそれはセレウコス1世に取って代わられます。ちなみに「ニケーア公会議」の舞台で、エーゲ海世界からフリギアへの入り口にあたる都市ニカイア(現イズニック)は、アンティゴノス1世が建設[紀元前310年頃]し、のちにリュシマコスが彼の亡妻(ニケア)に敬意を表してこの街を命名しました[紀元前300年頃]。

その後、ヨーロッパから侵入して来たのがケルト系ガラテア人です。彼らはフリギア東部を支配し、この地はガラテアと呼ばれるようになりました。まもなく都ゴルディオンもガラテア人によって破壊され、歴史から消え去ります。紀元前188年、ヘレニズム国家アッタロス朝ペルガモン王国によってフリギアは占領されます。やがてローマの影響が強くなる中、ペルガモン国王の遺言により、紀元前133年にフリギア西部は共和政ローマに割譲されます。最終的に帝政ローマはフリギアを分割し、北東部を属州ガラテア、西部を属州アシアとして、公式名としてのフリギアは消え去りました。ただし通称としてのフリギアは、1453年の東ローマ帝国崩壊時まで使われていました。

 

フリギア文化 ~ 『民衆を導く自由の女神』とブルックナーの交響曲

 

フリギアは古くから独自の文化を持ち、ギリシャ神話などを通じてギリシャ・ローマの文化に大きな影響を与えました。フリギア王国とミダス王を滅ぼしたキンメリア人はアナトリアには留まりましたが、独自の王国を築いていないようで、そのおかげでフリギア王国の終焉後もフリギアの地では支配者たちの家臣諸侯としての小国歌群は存続し、フリギアの芸術と文化は長く繁栄し続けることができました。

フリギアの山岳地帯で「山の母(大地母神)」として信仰されていた、ギリシャ・ローマではキュベレーとして知られる女神は、ベルト付きのフリギア風の長いドレスを着て長い帽子かぶっている姿や、のちにギリシャの彫刻家により表現された、ライオンを従えて片手に太鼓を持つ姿で信仰されていました。またフリギア人は、馬に乗った「父なる天空神」サバジオスも崇拝していました。ギリシャ人はサバジオスをゼウスと習合しましたが、その一方でローマ時代でもサバジオスは騎馬の神としても信仰され、ジュピター(ギリシャのゼウス)とは区別されています。

フリギアの名称は先の曲がった赤い三角帽子『フリジア帽』としても現在まで残っています。ギリシャの彫像では、フリギア人に限らず、オリエント由来の太陽神ミトラスもフリジア帽をかぶった姿で信仰されました。トロイ戦争の原因となった、「最も美しい女神へ」と書かれた黄金の林檎のエピソードに始まる『パリスの審判』で知られ、愛と美の女神アプロディーテーの弟でもある羊飼いパリス。古典的なギリシャの図像では、彼はフリジア帽を被らされることによって非ギリシャ人として表現されています。フリジア帽はローマ時代には解放奴隷の被り物とされ、近代に至っては自由を求める象徴となり、ドラクロワ作『民衆を導く自由の女神』女神マリアンヌもフリジア帽をつけています。ちなみに女神が胸をはだけているのは、絵画上の「記号」であり、フリギア文化とは無関係です。

アポロンとパンの音楽の腕比べの逸話のように、フリギア文化は音楽とも関係が深く、フリギア音楽は古代ギリシャへと伝えられ、独自音階のフリギア旋法は、バッハのコラール(讃美歌)やブルックナーの交響曲でも使用されています。管楽器オーボエの起源もフリギアに由来しているとも言われています。

インド・ヨーロッパ語族に属するフリギア語は、ギリシャ文字に似たフェニキア文字系統のアルファベットで書かれ、古フリギア語(王国時代)および新フリギア語(ローマ時代)で書かれた碑文が知られていますし、フリギア語がギリシャ語アルメニア語と重要な特徴を共有していることも明らかですが、現在に至るまで幾つかの単語以外はほとんど解読されていません。他の言語との関係性もよくわからず、そのためフリギアに関する情報はほとんど古代ギリシャの記録に頼らざるをえない状況です。過去50年間のフリギア研究では、ギリシャ語とフリギア語、両者の共通の起源語である原ギリシャ・フリギア語段階を提案する説が唱えられています。また、ヘロドトスは、古代エジプトのファラオがフリギア語をエジプト語よりも古い言語だと認めたエピソードを紹介しています。文献におけるフリギア語の最後の言及は西暦5世紀です。そして、おそらく7世紀までにはフリギア語は絶滅したと考えられています。

 

新『ユネスコ世界遺産』~フリギアの王都ゴルディオン

 

古代フリギア文明の遺跡・ゴルディオンは、古代中近東の歴史において最も重要な史蹟の1つです。ゴルディオン(ラテン名ゴルディウム)はアンカラの南西約80キロ、トルコ中央部、リュディア王国とアッシリア帝国を結ぶ古代の道上に位置しています。東(アッシリア・バビロニア・ヒッタイト)と西(ギリシャ・ローマ)の大帝国間の交差点上にあり、エーゲ海や地中海と中近東を結ぶ交易ルート上での戦略的な位置を占めていました。ゴルディオンの名称は「都市」を意味するフルギア語のゴルドゥムに由来します。ゴルディオンは、フリギア文明とその遺産を理解するための優れた考古学遺跡として、2023年にユネスコ世界歴史遺産に指定されました。初期フリギア時代の城塞と都市の支配者たちの墳墓は、中近東における鉄器時代の記念碑的建築群となっています。

開けた田園風景の中に佇むゴルディオンの遺跡は、鉄器時代の独立国家古代フリギア王国の首都の遺構を含む多層の古代集落です。歴史的に重要な遺跡としては城塞の丘(現在知られている世界最古の着色床モザイクが発見されています)、城下町(ダウンタウン)、保存状態の良い要塞門(BC10~8世紀)、およびいくつかの権力者たちの古墳が残存しています。大規模な食品調理を行っていた城塞のテラスや織物生産にも利用された複合施設は、長さ100mを超え、その規模においても古代世界に類例がありません。考古学的発掘と研究により、当時の建設技術や埋葬慣行が明らかになっています。古墳群の中で最大の「ミダス墳丘」は、高さ53mに達し、その中の埋葬室は現存する木造建築としては世界最古(紀元前740年頃)であり、その埋葬室内部では、古代における最も保存状態の良い木製家具が発見されました。

ゴルディオンには、少なくとも青銅器時代の初期(BC3000年頃)から人々が住んでいました。青銅器時代中期(BC2000~1600年)になると、ゴルディウムはヒッタイトの影響下に入り、遺跡にはヒッタイト帝国の行政印章もはっきりと残っています。青銅器時代後期にはヒッタイト帝国の重要な都市として、帝国の西端を守っていました。

鉄器時代前期(BC1200~900年)になると文化的に大きな変化がこの町にもたらされ、建築や陶器に関してはそれ以前とは特にドラスチックな差異を示しています。鉄器時代になってヨーロッパとの陶磁器、及び言語のつながりが見られるようになったことは、この時期にバルカン半島からの移民(おそらくブリギア人)が流入しはじめたことを示しています。

フリギア時代初期[鉄器時代中期](BC900~800年)に入ると幾つかの記念碑的な建設がすすめられました。城塞の丘の周囲には、広大な門を備えた回壁が設けられました。高さ10mの東城門は、アナトリアで最もよく保存されている城門の代表例です。紀元前850年頃に建設された古墳群は、現在知られているアナトリアにおける古墳埋葬の最初の例であり、ゴルディオンのエリートたちのシンボルでした。近くの尾根には2つの主要な墓地があります。紀元前850年の西古墳は、このゴルディオンの遺跡で知られている最も古いものであり、現在知られているアナトリア最古のものです。城門内の一連の建物は相互に接続された大規模なテラスや大広間(メガロン)を備えており、最大のメガロンは謁見ホールとして使われていました。メガロンでは、小石で造られた精巧な幾何学的デザインを施したモザイクの床がいくつも発見されています。初期フリギア時代の遺跡は、紀元前800年頃に城塞の丘周辺で発生した大火により、武力による破壊を免れ、焼けた面の上にその後、最大5mの粘土が堆積したことにより、かえって良く保存されています。封印され保存された初期フリギア時代の多くの建築と数百点の文物が発見された結果、初期フリギア時代のゴルディオンに関しては、中期フリギア時代よりも多くのことがわかっています。 

考古学者たちは当初、この大火災と都市の崩壊を、ミダス王の死をもたらした紀元前700年頃のキンメリア人よる攻撃の跡であると解釈しました。この紀元前700年の大火説は広く学会で使用されていましたが、その後、放射性炭素年代測定、年輪年代分析、トゥムルスⅯⅯ(ミダス墳丘)の年代確定、大火災後の地層から発掘された8世紀のギリシャ陶磁器の研究が進められました。総合すると、大火の発災がこれまで考えられていたよりも約100年早い紀元前800年頃であることがこの研究によりわかりました。この火災はもはやキンメリア人の侵攻と関連付けることはできず、軍事攻撃の痕跡もなく、おそらくこの大火は偶然に起こったと考えられます。

 

「ミダス墳丘」・アケメネス朝の包囲戦・ゴルディオンの崩壊

 

紀元前800年頃の大火災は、初期フリギア時代から中期フリギア時代(紀元前800~540年)への変化をもたらしました。火災の後、ゴルディオンの住民は、城塞の丘の大規模な建設計画を完遂しました。城塞そのものもほぼ同様の計画に基づいて再建されました。この記念碑的な国家事業には膨大な労力と緻密な計画を必要としました。壁と堀によって保護された城下市の外部にも集落が建設しました。この新しい入植地は近くの山の尾根にまで広がっています。中期フリギア時代にゴルディオンは最大規模に成長し、約100ヘクタール居住地を取り囲みました。この頃、アナトリアにおけるフリギアの政治的影響力は大幅に増大し、紀元前9世紀から8世紀にかけて、ゴルディオンは西部アナトリアの大部分を支配する王国の首都へと成長しました。フリギアの最も有名な王ミダスは、ゴルディオンで王位に就き統治しました。紀元前700年頃、未知の敵(キンメリア人?)の攻撃で新しい入植地の家々は破壊されてしまいました。

ゴルディオンの近くには、紀元前9世紀から6世紀に遡る100を超える古墳があります。特に大古墳であるトゥムルスⅯⅯ(ⅯⅯ号墳)は紀元前740年頃に造られたゴルディオン最大の古墳で、伝統的にミダス王と関連付けられてきました(通称「ミダス墳丘」)。今日の高さは50m以上、直径は約300mです。そのおよそ200年後、リュディア王国の都サルディス(*)近郊にリュディア王アリュアッテスの墳墓(高さ35m、直径355m)が造られるまではアナトリアで最大の古墳でした。(*イズミールとパムッカレの中間)

トゥムルスⅯⅯは1957年に発掘され、広大な古墳の下に深く埋められた木造の建造物が明らかになり、開いた棺の中からは紫と金の織物の上に安置され、膨大な数の壮大な品物に囲まれた王室居住者の遺骨が発見されました。副葬品には、食べ物の跡が残った陶器や青銅製の容器、青銅製の安全ピン、青銅の金具が付いた革ベルト、および保存状態が非常に優れた彫刻や象嵌を施した木製家具の驚くべきコレクションが含まれていました。これらの発見された文物は、現在、アンカラのアナトリア文明博物館に展示されています。トゥムルスⅯⅯでの葬儀の様子も復元されており、学者らは宴会の客が子羊やヤギのシチューを食べ、発酵飲料を飲んでいたことを突きとめました。現在、一般的に「ミダス墳丘」と呼ばれるこの大古墳は、ミダス王自身の墓ではなく、ミダス王が建設した墳墓です。学者たちは、これをミダスの父ゴルディアス王の墓であると考えています。そしてこれはおそらくミダス王即位後最初の記念碑的国家プロジェクトでした。

キンメリア人の侵入、紀元前6世紀前半のリュディア王国による占領、そして紀元前546年に始まったアケメネス朝ペルシャのキュロス大王によるアナトリア侵攻により、ゴルディオンにおけるフリギアの自治は終焉を迎えました。キュロス大王のアナトリア遠征後の後期フリギア時代[紀元前540~330年]、ゴルディオンはアケメネス朝ペルシャ帝国の一部となりました。紀元前546年のゴルディオンにおけるペルシャ軍の包囲戦については、ゴルディオン要塞を攻撃するために建てられたキュチュク・ホユクの砦など広範な証拠があり、その姿は今でも見ることができます。征服後ゴルディオンは、「ダーダネルス海峡と西部アナトリア」を意味するヘレスポントス・フリギア総督府の一部となり、ゴルディオンの代わりにマルマラ海のダスキリオンが府都になりました。都市の地位は降格され、自治権も失いながらもゴルディオンは当初、アケメネス朝の支配下でも繁栄を続け、古墳の埋葬と記念碑的な建築は紀元後6世紀まで維持されました。紀元前500年頃、半地下の彩色家屋が城塞の丘の東側に築かれました。その壁のフレスコ画で描かれた特徴的な女性の行列の様子は、おそらくカルト的な宗教活動に関連していると考えられていますが、その内容は不明です。

紀元前333年のアレクサンダー大王の出現によりゴルディオンはヘレニズム時代(紀元前330~後1世紀)に入りました。フリギアでは再度、文化のドラスチックな変化が生じ、ギリシャの神々への崇拝、ギリシャ語の碑文、ギリシャ風陶器など全てが、その場所にかつてあったフリギア人の文化に取って代わりました。紀元前3世紀半ばに、傭兵として初めてア​​ナトリアに来たケルトの一部族であるガラテヤ人が到着しました。ガラテヤ人は最終的にゴルディオンを含むフリギアに定住しました。ヘレニズム時代のゴルディオンの集落は、城塞の丘には明らかに住宅とわかる大きな家屋が建てましたが、城下町には居住の痕跡はありません。都市の規模も中期フリギア時代と比してかなり小さくなっていました。

ゴルディオンのローマ時代は西暦1世紀から4世紀まで続き、城塞の丘の西側では定住と放棄が繰り返されました。ローマ街道はゴルディオンを通過しており、当時はヴィンディアの名で知られていました。ネクロポリスには、紀元後2世紀から4世紀にかけてのローマ人の埋葬跡も残されています。東ローマ帝国(ビザンチン帝国)時代以降は、一時的に東方から来たトルコ系の人々がここに暮らしたこともあったようですが、歴史からはゴルディオンは完全に消え去りました。

この遺跡は1900年に発掘が開始され、一連の発掘後、ゴルディオンはトルコで最も解明が進んだ遺跡の1つとして公開されました。遺跡からの出土品は、アンカラのアナトリア文明博物館、イスタンブール考古学博物館、ヤスホユクのゴルディオン博物館に展示されています。アンカラ・アナトリア文明博物館では、鵞鳥形のリュトン(盃の一種)や山羊形のリュトンなどの彩色土器、ライオンや山羊の頭部の装飾がついたシトゥラ(聖水用のバケツ)などが素晴らしい。フリギア関連の目玉はミダス王の木造墓室と(ロバの耳がついた?)ミダス王の胸像です。イスタンブール考古学博物館のゴルディオン関連では、雪花石膏の香水瓶や嘴付きの水差しなどの出来が良い(もしもイスタンブール考古学博物館の観光が初めてでしたら、アレクサンダー大王の石棺、バビロン・行列通りの彩色タイルのレリーフ、カデシュの条約碑文などの見学を優先すべきではあります)。

 

 

 

 

 

 

(照沼 一人)