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ペリリュー島の戦い (パラオ)

Columnペリリュー島の戦い (パラオ)

 パラオは、明治18年にスペインの植民地となりました。スペインから持ち込まれた天然痘や、略奪、殺戮の結果、約6万人だったパラオの人口は30年間で90%減少してしまいます。明治32年、スペインは、パラオを含むスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却します。大正3年に第一次世界大戦が開始されると、日英同盟に基づき、日本はドイツに宣戦布告し、海軍を派遣。ドイツ守備隊を降伏させてこれを占領します。大正8年、パリ講和会議(ベルサイユ条約)によって、パラオは日本の委任統治領になりました。そのとき、パラオの人口は約6千人にまで減ってしまっていました(2016年の人口は21500人)。

 日本は、ここに南洋庁及びパラオ支庁を置き、稲作、なす、きゅうり、さとうきび、パイナップルなど野菜や果実の栽培を持ちこみ、缶詰やビールなどの工場を建設し、道路を造り、それを舗装し、橋を架け、電話をひき、学校や病院を建設するなど、各種インフラの整備を行ないます。スペイン、ドイツの植民地時代のパラオでは教育が行なわれなかったため、地元民は文字も使用していませんでした。そこで日本は、パラオに小学校(公学校5年)を立て、日本語教科書を用いて、日本語教育を行います。「李陵」の作家、中島敦は、パラオ南洋庁の国語教科書編算掛を務めていた人物です。この在任中に「山月記」を著しています。台湾や朝鮮半島と異なりパラオの人たちには、人口の規模や地理的な面から高等教育への進学に制限があり、それについて中島は不満を漏らしていますが、中島に彼らを進学させたいと思わせるほどにパラオの人たちは学習熱心で、現在でも戦前生まれの老人たちは、美しい日本語を話せます。パラオの人々は優秀で、小学校1年生ですら掛け算九九を暗証できたといいます。当時日本が統治した国々からの代表選手が一堂に会して競う算数の学力大会では、パラオの小学生が優勝し、日本の新聞でも大きく取り上げられました。同時期に彫刻家の土方久功も公学校の図工教員をつとめていました。日本語は現在でもパラオの公用語のひとつです。

 昭和16年、太平洋戦争開戦の年、日本は、パラオ南部の面積13㎢の小さな島・ペリリュー島に滑走路2本の飛行場を完成させます。大戦中、そこは、日本にとっては、グアムやサイパンの後方支援基地として、またアメリカからは、フィリピン奪還の拠点として注目されていました。ミッドウェー海戦に勝利した米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官で連合軍中部太平洋方面最高司令官・ニミッツ提督の指揮下、このペリリュー島の攻略作戦を計画します。

 昭和19年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたが切られます。米軍総員48,740名に対し、中川州男隊長率いる、島を防衛する日本軍は宇都宮の第14師団、水戸歩兵第2連隊、高崎第15連隊など10,500名。兵員数よりもなによりも、航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃を行う米軍は、すでに補給路を断たれた日本軍の数百倍の火力を投下できました。高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを完全に焼き払い、海辺の防衛施設も完全に破壊しました。9月15日、米軍は「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする第一陣、約28,000名を島に上陸させます。一方、日本軍は地中深くに穴を掘り、これに対峙。水際での戦闘は凄惨を極め、上陸後6日目には海兵隊全連隊が壊滅状態に陥り、米国陸軍第81師団に交代します。海兵隊の司令官は心労から心臓を患い、後方へと送られました。3日で終わるとされた沿岸部での戦いはその後、1ヶ月半継続されます。

 しかし、決死の逆上陸による人員の増援はあったものの補給が一切なかった日本軍の抵抗は次第に衰えを見せ、洞窟陣地は次々と陥落。食料、水、弾薬が底をついた日本軍司令部は11月24日玉砕を決定します。翌朝にかけて、残存兵力によるバンザイ突撃が行なわれ、27日、ついに米軍はペリリュー島の占領を果たしました。上陸開始から2ヵ月半が経過していました。なお、生き残りの日本兵34名が洞窟を転々とし、終戦の2年後まで戦い続け、昭和22年に米軍に投降しています。この日本の戦闘形式は硫黄島へと引き継がれていくことになります。

 この戦いの死傷者は、日本軍の戦死者10,695名、捕虜202名。米軍の戦死者1,794名~2,336名 、戦傷者8,010名~8,450名(他に精神を患った者が数千名)。島民・民間人の死者0名、負傷者0名。民間人に死傷者が出なかったのは前年、島民899名を含む全員をパラオ本島などに疎開させていたためですが、この件に関しては現在、インターネット上でよく知られ、テレビドラマでも取り上げられた下記のようなエピソードがあります(現地で体験した老人から聞いた話として昭和40年前後の毎日新聞のコラムか毎日出版社の著作が初出とされています)。

 昭和18年、アメリカ軍が刻一刻とパラオに迫る中、白人統治の時代を知り、日本統治の時代も身をもって経験している島の村人たちは、仲間たちで話し合った。パラオではこうした話し合いには村人全員が参加する。ひとりでも反対する者がいると、全員が了承するまで何日でも話し合いを続けてみんなの意思を固める。そしてこの習慣は、いまなお続くパラオの人々の伝統となっている。

 飛行場設営の際、その作業に参加して、日本兵と仲良くなって日本の歌も一緒に歌っていた彼らは、話し合いの結果、全員一致で日本軍とともに戦おうと決めた。彼らの代表たちは日本の守備隊長中川州男のもとを訪れた。平素、温厚な中川隊長なら、一緒に戦うという自分たちの頼みを聞いてくれるに違いない。

 「自分たちも一緒に戦わせてほしい」という彼らの訴えをじっと黙って聞いていた中川は、一人ひとりの目をじっと見つめると、その瞬間、激高し叫んだ。

 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ。」

村人たちは驚き、茫然とするほかなかった。日本人は仲間だと信じていたのに、あれはみせかけだったのか。日本人に裏切られた思いで、みな悔し涙を流した。

 日本軍が用意した船で島を去る日、港には日本兵は誰一人見送りに来ない。島民たちは悄然として船に乗り込んだ。しかし船が岸辺を離れた瞬間、日本兵たちが岸に走り出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、船上の島民たちは悟った。あの言葉は、自分たちを救うためのものだったのだと。誰もが泣きながら手を振った。

 事実なのか、伝説なのか、創作なのかは、司令部が玉砕しているので不明です。ただ終戦後、放置されていた日本兵の遺骨を丁寧に埋葬したのは島に戻った島民たちです。

 戦後長らくアメリカの信託統治下に置かれたパラオですが、昭和56年、自治政府としてパラオ共和国が誕生した際、それを記念してペリリュー島守備隊を讃える歌が創られました。そして平成6年、アメリカから独立を果たすにあたり、国旗を制定することになりました。国民からデザインを一般公募した結果、日の丸を模したデザインが採用となります。周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月を表します。月は日章旗の太陽との友好を示すものといわれています。そして、パラオの国旗の満月は日章旗の太陽とは違って、中心から少しはずれています。これは、日の丸と全く同じでは日本に失礼だからと、わざと中心をはずしたとも言われています。