Fin.
苔生す新緑の京都に“陰陽師”安倍晴明と
謎多き秦氏ゆかりの地を訪ねる 5日間

Fin.苔生す新緑の京都に“陰陽師”安倍晴明と謎多き秦氏ゆかりの地を訪ねる 5日間

 ↑晴明神社

※こちらのツアーの募集は終了しました。

2023年6月12日(月)発~6月17日(土)着…¥298,000  

お一人部屋利用追加料金  ¥58,000

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ツアーのポイント “陰陽師” 安倍晴明 の足跡を辿る

今から千年の昔、平安時代の京の都に安倍晴明という天才陰陽師(おんみょうじ)がいました。その出自には不思議な伝説があります。当時、阿倍野に安倍保名(あべのやすな)という男が住んでいました。あるとき、和泉(いずみ)の信田明神(しのだみょうじん)にお参りをすませて帰ろうとした保名の元へ、狩りで追われた白狐が逃げてきて、これをかくまってあげました。その後、白狐は女の人になって、保名のところへ来ます。名前は葛乃葉と名乗りました。ふたりは結婚して阿部神社の近くに住み、やがて子供が生まれ、安倍童子(あべのどうじ・晴明の幼名)と名付けました。古来から狐は、霊力を持った動物として崇められており、白狐であった母親を持つ晴明は、天才陰陽師として君臨することになるのです。
朝廷の陰陽尞に仕えた晴明は、優れた才能により、安倍家を賀茂家と並ぶ陰陽師の家に押し上げました。その伝説は時代と共に広がり、浄瑠璃や歌舞伎、能にも取り上げられてきました。晴明を始めとする陰陽師たちが携わった陰陽道とは、暦学や天文学の知識を生かして呪いや占い、祭りをする宗教です。中国の陰陽・五行思想を取り入れて、平安時代の日本で成立しました。陰陽道は朝廷や貴族に信奉されただけでなく、鎌倉時代以降は幕府や一般の人々にまで浸透し、明治維新を迎えて禁じられてからは、いろいろな習慣や行事として暮らしの中に伝わってきました。
陰陽師には、二面性があるとされます。一つは中国伝来の陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)によって天体を観測したり、暦を作成する科学者的側面。そしてもう一つは、式盤を使って吉凶を占ったり、自在に式神(しきがみ、陰陽師の意のままに動く鬼神)を自由に操る呪術師的な側面です。京都の安倍晴明神社に伝わる『安倍晴明宮御社伝書』には、安倍晴明が亡くなったことを惜しんだ上皇が、生誕の地に晴明を祭らせることを晴明の子孫に命じ、亡くなって二年後の寛弘四年(1007年)に完成したのが、安倍晴明神社であると記載されています[福島稲荷神社ホームページより]。 
今回の旅では、いくつもの逸話が残る安倍晴明ゆかりの地を訪ね、よりディープな京都の旅をお楽しみいただきます。

 

ツアーのポイント② “新緑の京都”に苔の呼吸を感じて

アジアモンスーン域に含まれる日本は降水量に恵まれ、古代から苔が豊かな土地でした。そのため、万葉集にも登場するほど古くから日本人との結びつきがあったのですが、苔が日本人と広く繋がっていったのは鎌倉時代からだとされています。華やかで貴族中心の平安時代の後に続く鎌倉時代には禅の影響もあり、質素や静けさなど日本人特有の美意識である「わびさび」と相まって、今では日本全国いたる所で美しい苔の風景を見ることができます。
苔は日本庭園や神社仏閣などで、日本の風景を彩る非日常的な空間を創りだしています。特に京都では、35,000㎡もの広大な庭園に数百年間にわたって約120種類の苔に覆われた景観を維持している苔寺・西芳寺が最も有名です。
苔の緑が勢いを増す6月、歴史ある京都でわびさびが感じられる苔の風景に出会いませんか。

↑地蔵寺

↑祇園寺

 

ツアーのポイント➂ “古代歴史ロマン”謎多き秦氏一族

3世紀から7世紀頃にかけて、漢字、仏教、建築技術など、当時最先端の知識や技術を日本に持ち込んだ『渡来人』。その中でも秦氏は最大勢力の一つであり、その後の日本の産業、文化を形作る大きな功績を残した一族とされます。秦氏は5世紀頃に日本に渡来したといわれています。秦の始皇帝の末裔とも称する秦氏は、応神天皇の時代に渡来した弓月君(ゆづきのきみ)の子孫と『日本書紀』を伝え、養蚕・製糸に従事する集団を形成しました。同時に、農耕に関しても大いに力を発揮し、著しく生産性を向上させたと考えられ、京都盆地のみならず、近江や播磨など各地に、その痕跡を留めています。もともと職能集団であった彼らは、治水による灌漑、製鉄、鉱山開発、酒の醸造、養蚕と絹織物の製造など、高度な技術を日本に持ち込んだ、いわば殖産興業の祖であり、時のヤマト朝廷からも厚い信頼を得ていたようです。また日本の神社に最も多い八幡神社や、穀物の神様を祀る稲荷神社の信仰を持ち込んだのも秦氏だとされています。
6世紀頃になると秦氏の族長的な人物、秦河勝が、当時、政治の中枢にいた聖徳太子の側近として活躍します。のちに秦河勝は、芸を子孫に伝え、神楽は後に「申楽(さるがく)」「能」と呼ばれるようになります。受け継いだ子孫が、能を大成させた観阿弥・世阿弥親子だといわれています。世阿弥が記した能の家伝書・『風姿花伝』には、能の元祖は秦河勝であり、自分はその末裔であるとの記述があります。また、日本の古典音楽である雅楽を奈良時代から世襲してきた東儀家も河勝の末裔だとされています。
秦氏の本拠地は、一般に京都市嵯峨の辺りから太秦(うずまさ)にかけての地域とされています。彼らが信仰の拠り所としていたのが嵐山や渡月橋に近い松尾大社であり、国宝の弥勤菩薩像で知られる太秦の広隆寺は秦氏の氏寺とされています。
 実は秦河勝にゆかりの地は、播磨・赤穂の岬から北東に海沿いの町・坂越(さこし)にもあるようです。聖徳太子の死後、秦河勝は蘇我氏との政変に巻き込まれ、摂津難波の浦(現在の大阪)から舟に乗ってこの坂越にたどり着きます。地元の人々がその霊を大避大神として祀ったのが坂越の大避(おおさけ)神社です。また、大避神社の対岸に位置する生島には、秦河勝を祀る墓もあるとされています。
 日本の歴史に多大な影響を与えた秦氏。彼らの足跡を巡り、是非古代ロマンに触れてみてください。

↑蛇塚古墳

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