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樺太の歴史

Column樺太の歴史

658年 『日本書紀』によれば、斉明天皇の頃、阿倍比羅夫が水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、さらに粛慎(樺太)を平定。

1264年 フビライハンの時代の蒙古、3000人の軍勢を樺太に派兵し、樺太原住民の朝貢を得る。

1284年 樺太住民の元への反乱。

1295年 日蓮宗の日持上人が樺太へ渡り、本斗町(現ネベリスク)に上陸し布教活動。

1297年 蝦夷沙汰職、蝦夷代官・安東氏が樺太の蝦夷を率いて黒竜江流域に侵攻し、元と交戦。

1308年 住民が元に降伏。毎年の朝貢を約束。

1411年 明が、衛(領事館)を樺太に設置。交易開始。

1485年 樺太アイヌの首長が、蝦夷管領・安東氏の代官の配下となる。

1603年 松前藩によって宗谷に利尻・礼文・樺太を司る役宅設置。

1644年 江戸幕府、「正保国絵図」に樺太記載。

1679年 松前藩、大泊(現コルサコフ)に陣屋設置。漁場の開拓。

1685年 樺太は松前藩家臣の知行地になる。

1700年 松前藩、樺太を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を幕府に提出

1715年 松前藩主が「十州島(北海道)・樺太・千島・勘察加(カムチャッカ)」は松前藩領と幕府に報告

1790年 樺太西海岸南端に松前藩が商場を、幕府は勤番所を設置。

1806年 文化露寇。大泊が通商拒否の報復のため、ロシアにより焼き討ちされる。

1807年 ロシア海軍、樺太・留多加を襲撃。警備のため幕府は秋田藩、弘前藩、仙台藩、会津藩に蝦夷地への出兵命令。樺太も幕府直轄領とし、以降、樺太アイヌを含む全蝦夷地の宗門人別改帳作成

1808年 幕府、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を樺太に派遣。松田は樺太最西端ラッカ岬に「大日本国国境」の国境標を建立

1809年 間宮により樺太が島であることが確認。呼称を北蝦夷地と定める。沿海州と樺太との交易を幕府公認化

1821年 幕府、樺太を松前藩に返還

1853年 ロシアが北樺太クエグト岬にロシア国旗を掲げ領有を宣言。秋には大泊にロシア国旗を掲揚し樺太全島の領有を宣言。

1854年 日露和親条約。日露国境を樺太島上で定めないことを決定。

1855年 再び幕府直轄領とする。秋田藩が警固担当。

1858年 大泊周辺を函館奉行所の管轄にする。

1859年 ロシアによる樺太全土領有の威嚇要求と幕府による拒否。

1865年 岡本監輔が樺太最北端ガオト岬に至り、「大日本領」と記した標柱を建立

1869年 北蝦夷地を樺太と改称

1875年 樺太・千島交換条約。樺太全島がロシア領に。ロシアは流刑地として利用。

1890年 作家チェーホフが樺太を現地調査。現地在住の日本人島民とも交流。

1905年 日露戦争末期、日本軍が樺太全域を占領。ポーツマス条約南樺太が日本へ割譲

1906年 『樺太日日新聞』創刊。

1907年 樺太庁発足。拓銀大泊支店開設。

1911年 鉄道・樺太東海岸線の全区間(大泊・栄浜間)開通

1913年 三井鉱山、川上炭鉱の出炭開始

1915年 17郡4町58村設置。王子製紙進出。

1922 稚内・大泊間の汽船航路開業

1923年 宮沢賢治が樺太を訪問。

1941年 日本放送協会豊原放送局開設。

1945年 ソ連侵攻。真岡郵便電信局事件(九人の乙女)・三船殉難事件。